日立市の歴史

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明治時代、政府の方針によって、国内の銅の需要が高まり、明治38年(1905)久原房之助が、それまで採算のとれなかった赤沢銅山に資本を投入し、日立鉱山として本格的に採鉱を始めました。更に、日立鉱山の電気機械の修理工場だった工作課が自社製品の開発にのりだし、大正元年(1912)、日立製作所として独立しました。

 しかし、「大煙突」近代産業の発展をとげる反面、銅の製錬増大にともない排煙による煙害が深刻になり、地域住民と会社が協議を重ね苦心の末、後に市のシンボルとなった、高さ155.7m、当時東洋一といわれた大煙突を建設し、煙害問題を解決しました。この当時の人々の努力は、新田次郎の小説「あるまちの高い煙突」のモデルになっています。
(注)大煙突は平成5年(1993)に半壊しましたが、現在も市の発展の歴史を記す証として立ち続けています。

 

日立鉱山 昭和14年(1939)日立鉱山と日立製作所の発展により人口が増加し、産業を始めとする土地利用が密接になり、多賀郡日立町と多賀郡助川村が合併し、日立市が誕生しました。

 しかし太平洋戦争末期、軍需産業の拠点の一つであった戦災跡日立市は、爆撃、艦砲射撃、焼夷弾攻撃のあいつぐ戦災にみまわれ、全市街地の約7割が焦土と化し、壊滅的な打撃を受け、約1500人を超える市民の尊い命を失いました。

昔の日立駅前 これらの苦い経験を持つ日立市民は、二度とこのような悲劇が繰り返されぬことを願い、戦後50年を経た平成7年(1995)市民の運動によって「平和の鐘」を建設し、恒久の平和を誓いました。

 

終戦直後の日立市は、「平和通り」日立市戦災復興事業に着手し、昭和26年(1951)には、国道6号と日立駅を結ぶ「平和通り」が開通しました。この通りの名称にも平和を愛する市民の願いが込められています。また、「平和通り」の植樹帯には、サクラ(染井吉野)が植えられ、現在、開花期にはみごとなサクラのアーチを形づくり、市民に親しまれています。

日立市制祝い 昭和30年(1955)に久慈郡と多賀郡の1市2町4箇村が、翌年(1956)には多賀郡豊浦町が合併し、現在の日立市となりました。
昭和32年(1957)には、日立市を中心とする7市2町2箇村が東京通産局から常陸工業地帯に指定され、その後の高度経済成長の過程の中で全国有数の工業都市として発展しました。

 

「日立シビックセンター」昭和42年(1967)には、「日立港」が開港するとともに、重要港湾に指定され、今なお増大する海上物流の拠点として整備が進められています。
昭和40年代後半からは、「福祉のまち」としての各種福祉施設の整備や、自然環境を守り快適な生活環境を確保するために、公共下水道の整備が進められました。現在、本市の下水道普及率は96%に達しています。

奥日立「きららの里」 平成の年号に変わってからは、日立駅前開発事業により、平成2年(1990)に「日立新都市広場(愛称パティオ日立)」と、市の新しいシンボル的施設である「日立シビックセンター」 がオープンし、平成6年(1994)には、人々が自然に親しみ、ふれあうことのできる観光レクリエーション施設「奥日立きららの里」がオープンしました。

 

 今、日立市は県北地方の中核都市として、より広い地域の人々が集い、創造的で豊かさを実感できる都市基盤の整備を進めています。